崔順実(チェ・スンシル)


『世界ナゼそこに?日本人〜知られざる波瀾万丈伝』
통일교회統一教会

問題とされた記事は韓国国会でのやりとりや朝鮮日報コラムの紹介が中心であり、この記事を理由に名誉毀損容疑で出頭を求められるというのは理解に苦しむ」





コラムでも、ウワサが朴大統領をめぐる男女関係に関することだと、はっきりと書かれてはいない。コラムの記者はただ、「そんな感じで(低俗なものとして)扱われてきたウワサが、私的な席でも単なる雑談ではない“ニュース格”で扱われているのである」と明かしている。おそらく、“大統領とオトコ”の話は、韓国社会のすみの方で、あちらこちらで持ちきりとなっていただろう。





 このコラム、ウワサがなんであるかに言及しないまま終わるのかと思わせたが途中で突然、具体的な氏名を出した“実名報道”に切り替わった。


 「ちょうどよく、ウワサの人物であるチョン・ユンフェ氏の離婚の事実までが確認され、ウワサはさらにドラマティックになった」


 チョン氏が離婚することになった女性は、チェ・テミンという牧師の娘だ。チョン氏自身は、大統領になる前の朴槿恵氏に7年間、秘書室長として使えた人物である。コラムによると、チョン氏は離婚にあたり妻に対して自ら、財産分割及び慰謝料を請求しない条件を提示したうえで、結婚している間に見聞きしたことに関しての「秘密保持」を求めたという。


 証券筋が言うところでは、朴大統領の“秘線”はチョン氏を念頭に置いたものとみられている。だが、「朴氏との緊密な関係がウワサになったのは、チョン氏ではなく、その岳父のチェ牧師の方だ」と明かす政界筋もいて、話は単純ではない。


 さらに朝鮮日報のコラムは、こんな謎めいたことも書いている。


 チョン氏が最近応じたメディアのインタビューで、「『政府が公式に私の利権に介入したこと、(朴槿恵大統領の実弟の)朴志晩(パク・チマン)氏を尾行した疑惑、(朴大統領の)秘線活動など、全てを調査しろ』と大声で叫んだ」


 具体的には何のことだか全く分からないのだが、それでも、韓国の権力中枢とその周辺で、なにやら不穏な動きがあることが伝わってくる書きぶりだ。ウワサの真偽の追及は現在途上だが、コラムは、朴政権をめぐって「下品な」ウワサが取り沙汰された背景を分析している。


 「世間の人々は真偽のほどはさておき、このような状況を大統領と関連付けて考えている。過去であれば、大統領の支持勢力が烈火のごとく激怒していただろう。支持者以外も『言及する価値すらない』と見向きもしなかった。しかし、現在はそんな理性的な判断が崩れ落ちたようだ。国政運営で高い支持を維持しているのであれば、ウワサが立つこともないだろう。大統領個人への信頼が崩れ、あらゆるウワサが出てきているのである」 





^ “朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?”. 産経新聞. (2014年8月3日)
^ “産経前ソウル支局長を在宅起訴 「朴大統領の名誉毀損」”. 朝日新聞
^ a b “本紙ソウル支局長に出頭要請 ウェブ記事「大統領の名誉毀損」 韓国検察”. 産経新聞. (2014年8月9日)
^ “朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?”. 産経新聞. (2014年8月3日)
^ “韓国検察 産経前ソウル支局長を在宅起訴”. 聯合ニュース
. (2014年10月8日)
^ 平成26年10月9日(木)午前 官房長官記者会見
^ “【本紙前ソウル支局長起訴】「大人の対応ができるように努力を」自民・二階総務会長”. 産経新聞. (2014年10月9日16時15分)
^ “産経前ソウル支局長の出国禁止処分 3カ月延長=韓国”. 聯合ニュース. (2014年10月14日)
^ “「司法の判断に委ねるしかない」と朴槿恵氏 訪問の二階氏は「家族と会えるように」との首相の意向伝える”. 産経新聞. (2015年2月13日)
^ “自民・二階氏「産経も努力を」 慰安婦問題で新聞批判も 訪中には3千人同行予定”. 産経新聞. (2015年2月20日)
^ 韓国政府、加藤前支局長の出国禁止措置を解除 8カ月ぶり
^ 産経前ソウル支局長が帰国 韓国検察「人道的な配慮」
^ 首相「ご苦労さま」 産経新聞前ソウル支局長をねぎらう
^ 判決は11月26日 検察側が懲役1年6月を求刑 加藤前支局長「コラムに公益性」
^ 26日の判決公判が急遽延期 来月17日に
^ 本紙前ソウル支局長に無罪判決 産経ニュース、2015年12月17日。
^ “判決文読み上げ3時間、産経前支局長は着席許されず”. 朝鮮日報日本語版. (2015年12月17日) 2015年12月19日閲覧。
^ 安倍首相が加藤前支局長を慰労 「よかったですね」
^ NHK (2015年12月22日). “産経新聞 前ソウル支局長 無罪確定へ”. NHK NEWSweb 2015年12月23日閲覧。
^ a b “産経支局長聴取問題 ペンクラブ、FCCJが声明”. 日本新聞協会
^ “「言論の自由を支持」=産経前支局長起訴で懸念”. 時事通信. (2014年10月9日9時51分)[リンク切れ]
^ “仏紙ル・モンド「言論の自由、韓国で受難」”. 朝鮮日報
^ ル・モンド紙 En Corée du Sud, la
^ “韓国は「言論の自由」を遵守すべし”
^ a b “【新潟日報】<社説>産経記者の判決 後味の悪さが残る無罪だ”. 新潟日報. (2015年12月19日)
^ “「引用元の韓国新聞社に処分が無いのは問題」ジャーナリストの田原総一朗さん”. 産経新聞. (2014年10月8日)
^ a b [東京小考] 名誉毀損の起訴で毀損される名誉 [1]
^ 【iRONNA発】「朝日の若宮氏を知っていますか」 (1/2ページ) 2016.02.21[2]




1 :ダース・シコリアン卿 ★@\(^o^)/:2016/10/28(金) 18:21:06.25 ID:CAP_USER*.net

産経新聞前ソウル支局長「私を取り調べた韓国検事が崔太敏親子についてしつこく聞いた」
2016年10月28日07時57分

2014年の旅客船セウォル号沈没事故当時、朴槿恵(パク・クネ)大統領の7時間の行方に関する疑惑を記事にして名誉毀損容疑で起訴された産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が「崔太敏(チェ・テミン)氏と崔順実(チェ・スンシル)氏が朴槿恵政権の最大のタブーだった」と主張した。

現在、産経新聞社会部編集委員の加藤前支局長は27日、「政権最大級のタブーとは…朴槿恵大統領の政治生命の終焉につながる可能性がある」と題した記事で、

「ソウル中央地検で取り調べを受けた際、記者に検事がしつこく聞いてきたことの一つが崔太敏、順実親子に関することだった」と明らかにし「この問題が朴氏の抱える最大の急所なのだと、間もなく気づいた」と伝えた。

検察による崔順実氏の自宅の家宅捜索については「朴氏の政治生命の終焉につながる可能性がある」とし「崔親子との交友こそ、朴氏が隠さなければならなかった事柄であり、政権最大級のタブー」と主張した。
・・・

加藤前支局長はセウォル号惨事当日の朴大統領の行方について疑惑を提起するコラム(朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?)を書き、名誉毀損容疑で在宅起訴された。

当時、裁判所はコラムの内容が虚偽だと認めながらも、加藤前支局長を無罪とした。

検察の取り調べで検事が崔太敏親子についてしつこく聞いたという加藤前支局長の主張が事実なら、検察は当時すでに朴大統領と崔順実氏の関係を知っていたという話になり、今後、波紋が予想される。




http://japanese.joins.com/article/109/222109.html
















「産経新聞の加藤達也前ソウル支局長:『崔太敏氏と崔順実氏が朴槿恵政権の最大のタブーだった』と主張」

「この問題が朴氏の抱える最大の急所なのだと、間もなく気づいた」

「朴氏の政治生命の終焉につながる可能性がある」

「崔親子との交友こそ、朴氏が隠さなければならなかった事柄」

「検察は当時すでに朴大統領と崔順実氏の関係を知っていたという話になり、今後、波紋が予想される」













1 :ダース・シコリアン卿 ★@\(^o^)/:2016/10/28(金) 18:00:14.07 ID:CAP_USER*.net

朴大統領の機密文書流出、産経前ソウル支局長が衝撃の事実を暴露=韓国ネット「今は日本人の方が信じられる」「朴大統領の弱点が暴露されてしまった」
2016年10月28日(金) 11時30分

2016年10月27日、韓国・アジア経済によると、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が友人の崔順実(チェ・スンスル)氏に大統領府の内部資料を渡し、助言を求めていた問題について、14年に韓国で起きた旅客船セウォル号惨事直後に朴大統領と鄭允会(チョン・ユンフェ)氏の密会説を報道し、名誉毀損の容疑で起訴された産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が口を開いた。

加藤氏は「ソウル中央地検で調査を受けた時、しつこく聞かれた話題の1つが崔太敏(チェ・テミン)氏と崔順実氏親子に関することだった。崔親子が朴大統領の最大の急所だということがすぐに分かった」と述べた。加藤氏は26日に行われた崔順実氏の自宅の家宅捜索について「朴大統領の政治生命が終末を迎える可能性がある」とし、「“崔親子とのつながり”こそ、朴大統領が隠さなければならなかったことであり、政権最大のタブーだ」と主張した。

また、加藤氏は「父親の朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領が射殺された後、朴大統領は周囲に疑いの心を持ち、孤独の中で成長した。そのため、朴大統領にとって崔親子は特別な存在だった」と説明。さらに、「崔太敏氏は朴正煕元大統領に大きな影響力を持つ相談相手だった。“つらい時に助けてくれた”関係は親子2代に渡る深いもの」と述べた。

しかし、朴大統領のこのような性格は政治的独善と人事ミスにつながったという。加藤氏は「このような性格は政治家になると独善に変わる」とし、「就任初期に登用した高官らが米国を訪問中にわいせつ事件を起こすなど、失策を繰り返した」と指摘。その上で、「初期の人事の裏には崔順実氏がいたはずだ」と主張した。

この報道に、韓国のネットユーザーは以下のようなコメントを寄せた。

「検察はずっと前からすべてを知っていたということか…」
「今は外国人の発言の方が信頼できる」
「大統領の言葉より韓国を攻撃する記事を書いた日本人の言葉を信じなければならないなんて…。恥ずかし過ぎる」
「崔順実がセウォル号事件に関わっていたことは確か」
「この際、朴大統領と鄭允会の7時間についても真実を明らかにしてほしい」
「日本の記者が朴大統領の心理状態や弱点のすべてを暴露してしまった」
「証言してくれてありがとう。こんなにも日本人をありがたいと思ったのは初めて」
「日韓慰安婦合意も崔順実が?それなら当然無効だ」

(翻訳・編集/堂本)




http://www.recordchina.co.jp/a153724.html




2016年10月31日、韓国・KBSはこのほど、18年に開催される韓国・平昌冬季五輪の準備が遅れており、国民から不安の声が上がっているが、その背後には、朴槿恵大統領から演説文や機密文書などを事前に受け取り、大統領府の人事や外交など国政全般に介入していたとされる疑惑「崔順実(チェ・スンシル)ゲート」が隠れていると報じた。 

平昌五輪の開幕が約1年後に迫っているが、開会式や閉会式の会場となるメインスタジアムの工程率はわずか27.5%。紆余(うよ)曲折の末、メインスタジアムは五輪旗と五行を象徴する五角形に決まったものの、設計が遅れる中で事業費が367億ウォン(約33億円)も増えた。 

原因はスイスのヌスルリ社を事業に参加させることに固執し、最終的な決定が6カ月以上も遅くれたためだという。ヌスルリ社とは、崔氏が所有するザ・ブルーKが了解覚書(MOU)を締結した会社。五輪組織委員会が「ヌスルリ社のコンセプトが合わないため、提案を受けることができない」と反対したが、文化体育観光部からの強い圧力があったという。これについて、文化体育観光部は「費用を減らすために海外の会社を推薦しただけ」と釈明した。しかし、五輪組織委員会が最後まで反対を貫いたため、結局ヌスルリ社は脱落することになった。 




 パク・クネ大統領の非線形実勢として知られてチェスンシル(チェソウォンに改名・60)氏が実際に所有していたブルーケイ(廃業)が設立当初からKスポーツ財団のチケットを除去目的を明確にしていたことが確認された。ブルーケイはKスポーツ財団のチケットを受け取った後、資金を洗濯して、ドイツ法人に送る目的で設立されたという疑惑を受けている会社だ。
 ザブルーケイの招待代表を務めた祖母さん(57)は、最近、東亜日報の記者と会い「ゴヨウンテブルーケイ取締役が会社設立の初期に「Kスポーツ財団が作成されなったので、多くの援助を受けることができるだろう。あらかじめ(お互いに)紹介しよう」と言って財団の理事と事務総長などに会った」と述べた。チョ氏はブルーケイが設立された1月から3月までの二ヶ月間の代表を務めた。チェ氏の側近であり、朴大統領のバッグをデザインした人物として知られていると氏はドイツと韓国に設立されたザブルーケイにそれぞれ経営者(マネージャー)と取締役に登場する。チョ氏は、会社の初期資本金も高氏が持ってきたと伝えた。彼は "(高氏が)5000万ウォンを先に用意して、後で5000万ウォンを追加しました。お金の出所は分からない」と述べた。
 チョ氏はブルーケイでチェさんの位相についても生々しく証言した。チェ氏は、従業員から「会長」と呼ばれただけでなく、会議を主宰し、会社の営業を直接指揮したというものである。ジョーさんは、「私は責任をのみて権限はない」パンツ社長」だった」とし「業務指示は、その人(チェスンシル)がしたスポーツ関連の仕事ゴヨウンテが引き受けながら私は仕事から排除された」と述べた。会議は毎週開かれたある。
 チェ氏の経営スタイルについての言及もあった。チョ氏は「チェ氏はさせる場合に限り、仕事をしたいと考えた」とし「させること以上をすれば「なぜオーバーか」と不機嫌だった」と述べた。ブルーケイが進行する営業については、「チェ氏は代表的な私にも進行方法を説明せずに「守って見よ」と指示した」とし「営業が具体的にどのように進めたのかよく分からない」と言ってチェさんや高氏がチケットを取ってくるために、直接プレーをする可能性を示唆した。
 チョ氏はブルーケイ代表として参加したきっかけについて、「大企業の役員などを務めた後、楽器の演奏を教え行っ通ったAさんが、スポーツマーケティング会社を整えるには「チェソウォン」を紹介し、会社設立に参加することになった」とした。「チェソウォン」が「チェスンシル」という事実は、最近のニュースを見ながら知ることになったという言葉も付け加えた。チョ氏は「過去の旅行代理店を運営したAさんは、チェ氏の飛行機のチケットを担当し、彼と縁を積んだと聞いている」とし、自身も旅行業務を任せた縁でAさんを知ることになったと説明した。




























陸英修
各種表記
ハングル육영수
漢字陸英修
発音:ユク・ヨンス
日本語読み:りく・えいしゅう
ローマ字Yuk Yeongsu
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来歴[編集]

忠清北道沃川郡陸鍾寬・李慶齡夫妻の間に1男3女の次女として生まれた。培花高等女学校(現在の培花女子高等学校)を卒業した後、1950年に、当時陸軍中佐だった朴正煕と結婚し、1男2女をもうけた。
夫の大統領就任後は、政治外交史や歴史学、英語など多方面に亘って、著名な大学教授達から毎週講義を受けることで、政治と社会問題に視野を広げ続け、ファーストレディとしても、韓服姿に穏やかな表情によって、ニュース映画などを通じて国民に素朴な印象を与え続けた。
家庭でも主人に尽くす妻だったと伝えられている。また、福祉・教育に深い関心を持ち、幾度となく孤児院保育園へ足を運び、子供達への教育・福祉に対する政策を広げるなどした。1969年4月には、子供のための福祉財団である育英財団を設立し、子供大公園や子供会館の建立を主導した。他にも、ハンセン病患者達が収容されている施設を訪問して、自活支援事業を展開する、貧困者を対象とする職業訓練施設を設立する、ベトナム戦争に派遣された将兵達の家族への慰問と慰労を重ねる、災害現場へも自ら直接出向き、被災者達を親しく慰め、勇気づけるなど、積極的にファーストレディとしての役目を果たし続けた。私生活においても、使用人達の面倒を見る寛大な性分で、周囲の尊敬を受けた事でも知られている。
こうした行いから、「国母」と呼ばれ尊敬されていた。朴大統領が学生運動などを抑え込むなど強圧的な姿勢で対峙し、国民からの評判も決して良くなかった時代の中でも青瓦台の野党とまで称された。朴大統領に反感を持つ人でも、陸夫人には好意的な印象を持つ国民も多く、文世光事件による国民のショックも大きかった。

暗殺[編集]

1974年8月15日午前 10時、ソウル南山にある奨忠洞国立劇場大ホールで開かれた光復節記念式典会場において、総連の指示を受けた在日朝鮮人文世光が撃った銃弾が頭部に命中して死亡した。文が朴大統領を狙って撃った1発目の銃弾が外れた後、犯人を狙い撃ちするために演壇から走り出た朴鐘圭警護室長を狙い、文が発射した4発目の銃弾が陸英修に当たったものだった。式典では気丈にしたが式典を終えると、病院に駆けつけた朴大統領は妻の死を知りその場で号泣したという。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

土台人」となって赤化統一を目指した文世光は1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立った。同年5月、大阪湾に停泊中の北朝鮮万景峰号の船中で、朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員から朴大統領射殺の指令を受けた[1]
1973年11月に香港を旅行した際に暗殺実行の為の拳銃の入手に失敗した事から、1974年7月18日に大阪市南区(現在の中央区)の高津派出所拳銃2丁を盗み、高校時代の知人である日本人女性を利用して、女性の夫名義による韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成するなど準備を着々と進め、同年8月6日に拳銃をトランジスタラジオの中身を抜いたケースにしのばせ韓国に入国した。文世光に狙撃を指令し資金を供与、偽装パスポートの作成指示、射撃訓練を行ったのは、大阪の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)生野支部政治部長の金浩龍(キム・ホヨン)だった[2][3]
実行までは、朝鮮ホテルに宿泊していたが、事件当日の朝、文世光はソウルパレスホテルフォード車を借り上げ、正装を着て中折帽までかぶった重厚な身なりで、某商社のソウル支店長と待ち合わせている日本政府高官になりすました。高級車に乗っていたこともあってか、警備員からも全く疑われる事なく、記念式典会場である南山国立劇場に潜入した。
国立劇場の中へは本来、招待状を持つ人しか入場出来なかったが、劇場入口を守っていた警察官は、日本語を使う文世光を、招請された外国人VIPと判断し、招待状がないにもかかわらず入れてしまった。
当初、文世光は朴大統領夫妻が劇場に入場する際に狙撃する事を試みたが、大統領が歓迎の子供達に囲まれていた事から、実行を断念した。
予定通り午前10時に式典が始まり、20分ほど経過した後、朴大統領が演壇で祝辞を読み上げ始めたところで、文世光は左側の腰に隠した拳銃を抜こうとしたが、誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負ってしまった。因みに、その時の銃声はスピーカーの音で消され、周囲は誰も気付かなかったという。それでも文世光は、朴大統領が祝辞を読みあげている途中で客席から立ち上がって通路を走り、20m先の壇上に向け2発目の弾を発砲したが、朴大統領は軍人出身ということもあり、銃声を瞬時に聞き分け、反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた[4]。3発目の引き金を引いた際は不発だったが、直後、標的を失った文世光が立て続けて撃った4発目の弾が、椅子に座っていた陸大統領夫人の脊髄に命中、第1弾が発射されてから、わずか7秒の出来事だった。最後の1発は、演壇の後方にある太極旗に当った。
陸夫人はソウル大学付属病院に搬送されたが、5時間40分に及んだ手術もむなしく、同日午後7時に死去した(49歳)。ちなみに、頭部付近に弾丸が命中し椅子から崩れ落ちるシーンは、アメリカCBSソウル支局のカメラクルーが撮影したものだった。
また、式典に合唱団の一員として参加し、客席に座って演説を聴いていた女子高生・張峰華(当時17歳)も、ステージ上にいた警護員が彼女の客席付近を走っていた文世光に向けて射撃した際の流れ弾に当たり、死亡した。
朴大統領は陸夫人が重傷を負い病院に搬送されたにもかかわらず、「私は大丈夫です」と言って、麦茶を一杯飲み終えた後、何事もなかったかのように最後まで毅然と演説を続け、その場に居合わせた観衆からは大きな拍手が送られた。しかし、式典の終了と同時に病院に駆けつけ、陸夫人の死亡を告げられた際には、その場で大声を上げて泣き崩れたという。
当日は、交通部長官白善燁の奔走と、日本の全面的な技術支援を得て開通した、ソウル地下鉄1号線の完工式も開かれる予定だった。工事関係者や在留邦人など多数の日本人が待機していたが、「犯人は日本人」と伝えられたため、全員避難させられ、完工式の式辞でも日本の支援については全く触れられることはなかった。

裁判[編集]

10月7日に初公判が開かれ、文世光は法廷に立った。文世光は大筋で犯行を認め、10月19日の1審(死刑判決)、11月20日の2審(控訴棄却)、12月17日の大法院における終審の全てにおいて死刑宣告された。
宣告から3日後の12月20日に、ソウル拘置所の処刑場において、拘置所長が文世光の死刑を確認する判決文を朗読した後、検事牧師刑務官など約10人が立ち会いのもと、「私が愚かでした。韓国で生まれたらこんな犯罪は犯していないでしょう。朴大統領に心から申し訳なく思うと伝えて下さい。国民にも申し訳なく思うと伝えて下さい。陸夫人と死亡した女子生徒の冥福をあの世に逝っても祈ります。朝鮮総連に騙されて、大きな過ちを犯した私は愚かであり、死刑に処せられて然るべきです」と涙ながらに最後の言葉を録音で残し、家族に対しては「母には、息子の不孝と期待に背いた事を申し訳なく思うと伝えて下さい」という遺言を残し、午前7時30分に文世光の死刑が執行された。

事件捜査[編集]

日本側[編集]

事件翌日の8月16日に、大阪府警本部は前述の日本人女性を旅券法違反の容疑等で逮捕すると同時に、文世光の自宅を捜索した。その際、大統領暗殺宣言と韓国革命を主張した「戦闘宣言」と題した論文や、盗難された拳銃2丁のうち1丁と弾丸などの証拠品を発見、押収したものの、外交関係がないため、在外公館でなく日本の主権が及ぶはずの朝鮮総連関連施設への捜査はウィーン条約にも続く治外法権を理由に行わなかった。

韓国側[編集]

8月17日に捜査当局は、事件は朝鮮総連の指令、援助によって実行されたもので、逮捕された日本人女性とその夫、並びに金浩龍が共犯者であると発表し、日本政府に対して捜査協力を要請した。これに対して日本政府は、事件と朝鮮総連の関係は明白ではないとして慎重な姿勢をとっていたものの、国内法の許す範囲で捜査に協力することを決定した。

影響[編集]

その後の日韓関係[編集]

この一連の事件の為、日韓関係は日韓国交正常化後、最悪の状態に陥った。韓国側の捜査によれば、朝鮮総連の関与は明白であったにも関わらず、日本側がそれを明確に認めなかった事、文世光が所持していた拳銃が大阪府内の派出所より盗まれた物であった事による。
謝罪のない日本側に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「中共だけが一番なのか。(日本と断交しても)安保、経済に問題はない」、「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。しかし、朴大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、日韓双方で、
  • 日本政府が遺憾の意を表明する。
  • かかる事件の再発防止。
  • 捜査についての日本政府の協力。
  • 日本から特使派遣の合意をすること。
という内容で合意し、最悪の事態はまぬがれた。
事件から4日後の8月19日に執り行われた葬儀(国葬)において、式を終えて涙を拭いながら青瓦台へ戻る軍服姿の朴の映像が日本においても配信され、日本からは田中角栄首相が出席した。その際、田中の「えらい目に遭われましたね」という言葉に、大統領は憤慨したと言われている。
加えて、8月29日木村俊夫外相が国会答弁の中で「客観的に見て、韓国には北朝鮮による脅威はない」と述べたことで、かねてから日本国内で引き起こされた金大中事件に対する日本からの非難を受けたことにより鬱積していた反日感情が一気に爆発、連日日本大使館前には抗議のデモ隊が押し寄せ、9月6日には群衆が日本大使館に乱入し日章旗を焼き捨てる事態にまで発展した[5]。その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前にまで至った[6]
事態を見かねた日本政府は、9月19日に自民党親韓派の重鎮として、韓国国内でも評価の高かった椎名悦三郎副総裁を政府特使として訪韓させ、日韓の友好関係を改めて確認することによって、両国間での問題決着がはかられた。朴大統領は椎名特使との面談の席上で、「日本政府が私達を友邦と考えるなら、喪中にある大統領一家や国民が悲しみと怒りに満ちているこの時に…」とし、「日本が引き続き、こんな風な姿勢を取れば、友邦とは認められないのではないか」、「(日本の姿勢は)政治と外交、法律に関係なく、東洋の礼儀上、ありえない事」、「日本外務省には秀才やエリート官僚が集まっていると聞いたが、どうやってこのような解釈ができるのか」など、激しい言葉で日本を糾弾した。退出した椎名特使は「長い公職での人生でこれほど罵倒されたことはなかった」と憤懣やるかたない表情で語り、付き添っていた金鍾泌首相があわててなだめる一幕もあったという。
韓国側はこの事件の処理に強い不信感を抱き日本政府側が求めた金大中事件の容疑者引渡し等の全容解明を拒否し、事件の解明要求と引き換えに曖昧な政治決着で問題解決を図ろうとしたと言われている。
なお、日本を「赤化工作基地」とみなす認識は、反共的な韓国の保守派・右派にとっては長らく反日感情の源泉となった。

北朝鮮との関係[編集]

この事件は金正日に「在日韓国人がテロを起こしたらどのようになるか」という考えをもたらし、それが大韓航空機爆破事件で、2人の北朝鮮工作員を日本人化させ、結果として日韓関係を打ち砕こうとする策略のヒントをもたらしたと言われる[2][7]
2012年7月5日の日本での講演会で『統一日報』の姜昌萬社長は、この事件以降、北朝鮮による日本における対南工作を、韓国人から日本人に切り替える政策転換をしたのではないかとの見方を提出している[2]。対南工作とは、北朝鮮による南朝鮮(韓国)工作のことで、朝鮮半島の赤化統一、共産化統一にもとづく工作のことである[2]。姜社長は「如何にして済州島まで共産化するか、ということが彼らの基本的な路線です。その中で日本が対南工作の基地になったわけです」と同講演会で述べている[2]
1970年の第5次党大会でナンバー2の権力を得た金正日が、当時対南工作の指揮をとっており、日本人拉致などもこのような韓国人から日本人へと工作対象を変換したことと関連していると姜は指摘している[2]

金正日が北朝鮮の関与を明言[編集]

2002年、朴正煕の長女で事件後にファーストレディーを代行していた朴槿恵(当時・ハンナラ党副総裁、後に韓国大統領)が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪した。ただし、「部下がやった事で自分は知らなかった」と述べた。そして、朴槿恵と金正日は、「お互い二世同士、頑張りましょう」と打ち解けたという。

その他[編集]

小説「夏の炎」[編集]

梁石日が文世光事件を題材にして、小説「死は炎の如く」を2001年に発表し、後に「夏の炎」と改題され文庫化される。文をモデルにした在日の青年、宋義哲が主人公。70年代の大阪を舞台に、政治運動に身を投じる宋が、祖国へ思いを募らせながら謎の人物達に導かれ、やがて学生時代の恋人と共に朴暗殺へと向かっていく。宋に目をつけ、大統領暗殺へと手引きする謎のグループの存在などフィクションと思われる要素を加えながらも、大阪の派出所から盗まれた拳銃で朴襲撃を実行に移すなどの実際の事件の詳細に沿ったストーリーが展開され、ベトナム戦争、朴政権と米国との確執、金日成政権下の北朝鮮との関係、日本における政治運動や在日の人々の状況といった、当時の国際関係や政治などを、事件の背景に見ることができる。なお、梁石日は文世光に同胞として強い共感を抱いていると表明している[8]

三菱重工爆破事件[編集]

1974年8月14日東アジア反日武装戦線は、昭和天皇お召し列車を鉄橋もろとも爆破しようとした「虹作戦」に失敗して、犯行は未遂に終わった。その翌日(光復節)に起きた文世光事件に彼らは衝撃を受け、『同志』(文中では文世光戦士)である文に呼応しなければならないと焦燥。標的を昭和天皇から日本帝国主義防衛産業の象徴である三菱重工に変え、「ダイヤモンド作戦」の決行に至った[9]8月30日、三菱本社ビルが爆破され、多数の死傷者を出す大惨事となった。

脚注・出典[編集]

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  1. ^ 2005年刊行の『拉致 国家犯罪の構図』金賛汀(ちくま新書)95pに「その後(※)、何人かの関係者からの証言で、日本に拠点を持つ朝鮮労働党連絡部の対日工作グループが計画・遂行したことが明らかになった。」との記述。(※)2002年の李謹恵議員の訪朝後
  2. a b c d e f [1]救う会全国協議会ニュース2012.7.13、第67回東京連続集会「自由統一か独裁か ─ 朝鮮総連・北との闘い」平成24年7月5日、文京区民センター記録。
  3. ^ 統一日報姜昌萬社長による。前掲、救う会全国協議会ニュース2012.7.13
  4. ^ 演壇には鉄板が入っており、拳銃の弾丸程度は跳ね返す事ができた。
  5. ^ 池東旭著 「韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落」 p.115
  6. ^ 実際、在韓日本大使館の職員には撤収準備の指示が出されていた。
  7. ^ 西岡力による。前掲、救う会全国協議会ニュース2012.7.13
  8. ^ NHK知るを楽しむ選 人生の歩き方 梁石日 “血”の咆哮(ほうこう) 第4回 2009年2月13日放送。[出典無効]
  9. ^ 東アジア反日武装戦線KF部隊 『反日革命宣言 : 東アジア反日武装戦線の戦闘史』 鹿砦社、1979年ASIN B000J8E0KE

関連項目[編集]

外部リンク[編集]