樹仙 ソメイヨシノ

まえがき
 現在、日本中で最も身近に見る桜が、ソメイヨシノである。サクラといえばソメイヨシノを指すくらいに、よく普及している。

 ソメイヨシノは、花が葉より先に咲くエドヒガンの性質と大きくて整った花形のオオシマザクラの性質を併せ持った雑種である。自生(実生)はなく、たとえ種ができても発芽しないので、各地にあるソメイヨシノはすべて接木などで増やしたものである。接木である関係で樹の寿命が短く、50年も経つと老衰するのが欠点とされている。

 歴史的には、江戸中期から末期(一説には江戸末期から明治初期)にかけて、染井村(現在の豊島区駒込辺り)に集落を作っていた造園師植木職人達によって育成され売出されたものだという。はじめはヨシノザクラといっていたが吉野山のヤマザクラ混同するので、発生地の名を冠してソメイヨシノとなったという。

 今回の散歩はJR山手線の駒込駅出発点として、このソメイヨシノ発祥の里訪ね歩くこととする。

 なお以下においては、説明板などを引用する関係で「ソメイヨシノ」を「染井吉野」と漢字で表記する。
地図


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 JR山手線駒込駅本郷通りに出ると、すぐ北側に染井吉野桜記念公園があり、「染井吉野桜発祥之里 駒込」の碑がある。平成9年に開園された、流れる水の演出などがある公園である。染井吉野桜の原種と言われる2種類の桜がある。

 ここの説明によると「駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨とともに花卉、植木の一大生産地であった。この地で江戸以降数多くの優れた園芸品種誕生したが、なかでも染井吉野は、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。」と記されている。
染井吉野桜記念公園
染井吉野桜発祥之里
 染井吉野桜記念公園を本郷通りに出て10~20m北に来ると、山手線の上に架かっていた先代の跨線橋(駒込橋)の遺構(欄干)が保存されている。単に歩道と車道の境を示しているように見えるので、気にも留めずに通り過ぎてしまいそうである。親柱には「駒込橋」の字が読み取れるが、その近傍にはこの遺構の説明板などは見当たらなかった。

 本郷通りの向かい側に大国(だいこく)神社の鳥居が見えるが、ここへは落語編「くしゃみ講釈」のときに立ち寄っているので、今回は通過していく。
駒込橋遺構
 染井吉野桜記念公園から本郷通りを北に150mほど来ると、通りの左側に「妙義神社 参道近道入口」の標柱が目に入る。本郷通りを左折して約100m行くと右手に妙義神社の鳥居が見えてくる。

 2基の鳥居の形の違いが目に付く。入口の鳥居(ぬき)が柱を貫通していない。これに対して石段の上の鳥居台輪があり、柱を貫通していて、稲荷鳥居に見える。

 当神社は、日本武尊東征のおりこの地に陣営をしき、のち白雉(はくち)2年(651)に社を建てて白鳥社と号したという。また、豊島区最古の神社だという。
近道標柱
妙義神社
 また太田道灌の信仰が厚く、度重なる出陣の折にはその都度戦勝祈願して当社に参詣し、その結果勝利を収めたという。こうした故事から「勝戦(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集め、「勝守り」(お守り)を授与している。

 写真右手奥の社は「道灌霊社」となっている。ここの鳥居白丸木(皮を剥いだ丸太)の神明風であるが、柱を貫通しており、額束を有している。

 妙義神社の横から豊島区立妙義児童遊園通り抜けると、中央聖書神学校の門の前に出る。道なりに250mほど進んで染井坂通りに出て左折し、約100mで駒込小学校の正門前に出る。ここを右折すると見事な桜並木が西福寺まで続いている。寺側の桜は墓地の桜が道路まで枝を伸ばしているものである。
戦捷祈願之旧趾
 西福寺(さいふくじ)の創建の年代は明らかでないが、駒込江戸時代から存在した寺である。この寺は江戸時代、大名藤堂家の下屋敷に近く、家中の祈願寺となり、その規模が非常に広大であっといわれているが、明治維新後に縮小されたという。

 門を入ると右手スグに「染井吉野の里」の碑がある。
西福寺桜並木
西福寺
 墓地には、徳川将軍家の御用植木師として名高かった伊藤伊兵衛政武があり、これは東京都の史跡に指定されている。

 伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうちに植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。四代目政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。政武は特にカエデを好み、深山楓舶来の楓を接木することに成功している。宝暦7年(1757)81歳で死去した。号を「樹仙」という。
染井吉野の里碑
伊藤伊兵衛政武墓
 西福寺の隣に染井稲荷神社がある。染井の鎮守御神体は「十一面観音石像」とのこと。関東大震災戦災にも被災しなかったことから、火防(ひぶせ)の神様となっている。江戸時代は西福寺別当であった。ここの境内にも「染井の里」のがある。

 神社の前に「染井よしの桜の里公園」があり、大勢の親子が遊びに来ていた。

 ここの説明板には、この地区は、染井村と呼ばれ多くの植木屋が軒を並べており、つつじなど四季折々の花が楽しめる名所地であったこと、そして「染井よしの」は、オオシマザクラエドヒガン品種を改良してつくられ、幕末期から明治初期に「染井」から全国に広まっていったこと、などが記されている。
染井稲荷神社
染井の里碑
 「染井よしの桜の里公園」西側の道を南に約150mくると染井通りに出る。ここを右折して約200mで染井霊園の入口にいたる。

 染井霊園入口の手前で道が二又に分かれるところに、十二地蔵が建っている。舟形の石6体の地蔵二段に刻まれている。十二体の地蔵の由来定かではないが、珍しいものだという。高さ約1.7mで文字は彫られていない。江戸中期のものと推定されている。碑の上部火や煙のような絵が描かれている。享保15年(1730)の大火による犠牲者の冥福を祈って近在の人々が建てたものと伝えられている。
十二地蔵
 十二地蔵の前の道を100mほど入ったところが専修院である。

 専修院は、元和3年(1617)(一説に慶長2年1597)の開山で、明治43年(1910)に浅草から現在地に移転してきたという。門の内外に多くの碑などがある。

 ここの土地は、江戸時代に染井に住んでいた多くの植木屋を代表する伊藤伊兵衛の屋敷の跡と考えられている。中でも三代目三之丞ツツジの栽培に力を注ぎ、染井のツツジ江戸の名所として一躍有名になった。
専修院
専修院の門の脇
専修院の境内
 染井霊園は、面積約6万8千平方メートルで、8ヶ所ある都営霊園中で最も小規模な霊園である。

 明治政府は神仏分離政策を薦めた結果神葬墓地必要になった。キリスト教徒なども同じ問題を抱えていた。この解決のため、宗教によらない公共墓地の開設が進められた。

 染井霊園播州林田藩建部邸跡地を東京府が引継ぎ、明治7年染井墓地として開設し、昭和10年(1935)名称を染井霊園と改めて今日に至っている。
岡倉天心の墓
1種イ4号14側
高村光雲の墓
1種ロ6号1側